2012年6月20日水曜日

病気がストレスに関係することについて:Ⅱ


 私たちの体には、約60兆個の細胞から構成され、ストレスによって細胞がダメージを受けるという話でした。人間の体の約60%は水分と言われており、ダメージを受けることによって細胞から水分が失われるようです。この水分は細胞が活動するための必要なものが含まれるため、水分が細胞から失うということは、細胞の活動を低下させると述べています。

 このダメージを回復させることができるのが、「糖」のようでした。コルチゾールはこの糖が細胞に行き渡りやすくために血糖値をコントロールします。細胞を元気にするために、血液中の糖分を取り組み、膵臓のインシュリンが必要になります。これによって、細胞が元気になると、視床下部へストレスが消えたという情報を送るそうです。このことは、コルチゾールとインシュリンは一緒に働くため、ストレスが続くと膵臓にも負担がかかることがいえます。つまり、ストレス状態が続くと副腎や膵臓を疲労させ、糖尿病のリスクをも高める危険性があると考えられます。糖尿病になると、血液中に糖がいっぱいある状態なのに、インシュリンが足りないために細胞が養分を吸収できない状態になります。だから、糖尿病の人はやせていくのですね。
 これらのことから、太っていなくても、食べすぎていなくても、現代のストレス社会の生活では糖尿病リスクを引き起こす原因となることが考えられるそうです。
 ストレスを感じやすい私の体も今頃視床下部は働きっぱなしになっているのでしょうか。視床下部には自律神経系も存在するため、交感神経優位になっていることが考えられそうです。休みになると一日ぐったりしてしまうのは、そのせいでしょうか。気持ちの問題が大部分と思われますが、ストレス発散した次の日に体が軽いのは、私の体にはホルモン系や自律神経系の影響が強いからなのかもしれません。

2012年6月10日日曜日

病気がストレスに関係することについて:Ⅰ

この間、臨床実習生とさまざまなお話を聞く機会がありました。教科書で載っている内容が臨床で応用的に捉えていくことが難しいということでした。この問題は、恥ずかしいことながら学生でもない私にもいえることでした。学生の立場・目線とした内容で進めていきたいと思います。

病気の発生学の進歩によって、その原因の多くがストレスにあることがわかってきているようです。そのストレスといってもさまざまで、「精神的ストレス」や「身体的ストレス」などがあり、私たちがストレスと自覚していなくても、体がストレス反応をおこすこともあります。

私たちの体で最初にストレスを認識するのは「脳」だそうです。全身にはりめぐらされた神経を通じて脳の「視床下部」というところでストレスを認識されます。ストレスが溜まると食べ過ぎや食べなさすぎるという話をよく聞きます。これは、ストレスをためこんだ「視床下部」が誤作動をおこしてしまうことが原因として表れるそうです(摂食障害)。

ストレス状態が長く続くと、病気の原因となるホルモンのバランスと自律神経のバランスが崩れ始めるそうです。脳の視床下部で受けたダメージを回復させるために、同じく脳の「下垂体」と呼ばれる場所に指令を出します。この「下垂体」は、ダメージ回復の実働部隊というべき副腎にストレス軽減に役立つホルモン(副腎のコルチゾール)を出させます。つまり、ストレスを感じるとコルチゾールの分泌量が増え、ストレスが解消されるとコルチゾールが正常化することがいえます。しかし、長く続いたことにより副腎は疲れ果て、視床下部は副腎の働きを抑制してしまいます。すると、ストレスがあるのにもかかわらず、コルチゾールが出ないという状況に追い込まれます。コルチゾールは疲労した細胞を元気にする働きを担っています。

次回、コルチゾールが出ないということがどのような影響を及ぼしてしまうのか。膵臓・インシュリン・糖尿病を用いた内容で進めたいと思います。

参考文献




2012年6月1日金曜日

老いの心理学

「私たちは老いについて見て見ぬふりをする。自殺者の統計では高齢者が圧倒的である。社会的定年を迎えると、あとは下り坂でその終わりは死であるというのが通俗的な人生観である。体力は衰え、記憶は薄らぎ、人間関係は縮小していく。そして孤立と孤独・社会的孤立の難問へ・・・。」

この本によれば、老いには「下り」ではなく、「上り」であるといっています。私はこの本を読んで、普段のリハビリテーション医療を実施していくなか、対象者を「下り」目線で行っていように思えてきました。対象者の本当の訴えを聞かず、こちらからの一方的な考え方で目標を設定してしまう。回復期リハビリテーションに求められる自宅退院を目的に、ポータブルトイレの使用、必ず家族の監視のもとでの生活、通所サービスの利用・・・。対象者は、自分の訴えを述べる間もなく、残りの人生の道筋を周囲から強制的に決められてしまう。

この本の「上り」についてこう述べています。
「米国の老人クラブでは、楽しそうに学習会を開いていた。テーマはなんと遺書の書き方。死の準備さえ人格的成長の一貫として捉えていた。」
「寝たきりの高齢者が、この次には世話をする人に生まれ変わりたいと言い遺した。」
「ひとりは孤独として捉えるのではなく、今までずっと縛られてきたわずらわしさから解放された喜び、ゆとりを受けとめる。なかにはまるで殿様の気分と言う高齢者がいる。ひとりの生活形態を重んじ、これを支える医療と福祉を充実させることである。」

リハビリテーションは、単純に機能をよくすることや在宅医療を目指すことでなく(だけでなく)、ひとりの人が思う「自立」を目指しながら終わりをまっとうする援助であること。それが大切だと思いました。
人間は生まれた瞬間から死へ向かって歩き続けると言われています。その人らしい上り坂を切り開く意志と努力を引き出していく人間が求められる気がしました。死を人生の頂点にできるかが、私たち一人ひとりに問われる課題であると述べています。




在宅へ帰る予定の患者さんが、実は施設にいきたいとこっそり私に問いかけてくれた患者さんがいました。在宅へ帰るために必要な歩行やトイレ動作を、一方的に押し付けている自分がとても無力に感じた瞬間でした。私にとっての作業療法士の位置づけは、ますますわからないものになっています。この本を読んで、また新たな課題を頂いたような気がします。

2012年5月23日水曜日

活動分析研究会を終えて

 行ってきました。活動分析研究会!!今回は、計2演題の発表の機会を頂き、大変貴重な経験となりました。今大会は、座長の雰囲気作りもあったと思いますが、たくさんの方が積極的に質問をしていた印象でした。2演題目の発表では、後輩との連盟発表。がちがちで緊張していた後輩も、座長さんにリラックスしてもらい、何とか最後まで頑張ることができました。外部の先生の発表も聞くことができました。なかには、両手で薬の袋をやぶくという難しい課題に挑戦し、結果は見事に一人でやぶくことができるようになった発表内容でした。

 とても印象的であったのは、山梨のスタッフの方々です。大会前からの準備、朝早くからセッティング、暑いなか若い先生が駐車場係りとして丁寧に誘導してくれていました。会場内では、山梨スタッフ全員が一致して本大会の流れをスムースに運んでくださいました。外部の人間としては、とても安心して参加することができました。スタッフとしてだけでなく、頑張って発表もされていました。もちろん内容はさすが山梨!!また、チャリティー活動も行っており、全国のセラピストが一致団結した瞬間でもありました。改めて山梨パワーをもらい、私にとって山梨スタッフの一人ひとりがリスペクトです。

 二日目はどうしても聞きたかった私の尊敬する先生の発表。なんと大学のテストと重なり、今回は残念ながらテストに向け帰宅へ。でも何とか4教科のテストも無事終えることができました。しばらくはまた大学卒業に向けてレポートや授業を頑張りたいと思います。そして念願の文京学院大学のブラッシュアップ1年コースに受講することができました。とても楽しみにしていたコース。普段の臨床の見直し、予習・復習を徹底していきたいと思います。



 これはほったらかし温泉の有名な揚げ玉。120円で最高の味を味わえます。


 山梨のほうとう。ダシはほろほろ鳥ベースでさっぱり味。

2012年4月23日月曜日

手がトイレ動作や歩行に与える影響について~頭頂連合野~

・この患者さんは被殻出血の方で、注意や空間などにおける高次脳と、左片麻痺の問題を呈していました。

・特に手が開かず患者さん自身も気になっている方でした(感覚が過敏で痛みも認められていました)。手に積極的な方であることをポジティブな要素として、治療に取り入れていきました。

・トイレ時にズボンの着脱を行っていた際に、ふらつきが強く、転倒する危険性があり介助が必要な方でしたが、治療後の手の変化に伴い、ズボンの着脱が監視で実施できるようになりました。



ご自分で手を開こうと頑張りますが、余計に屈曲への抵抗を強める傾向にありました。











介入後は手の開排が可能になり、ご自分でも指を動かせる位になりました。

この後に触れても過敏性はなく、屈曲を強めることはなくなってきました。



・何故トイレ動作や歩行などにも変化がみられたのか。手との関係性はどうなのか考えていました。抹消からの問題が姿勢制御に重要な「上肢」そのものに影響を与えることは、とてつもない浅い私なりの考えがありましたが・・・。

・文献では、発達のプロセスにおいて、頭頂連合野の重要性について述べていました。サルの実験において5野と7野は、手の存在を通して、身体図式と空間認知の機能を担っており、赤ちゃんが仰臥位で空間に手を伸ばすことからこの働きがすでにはじまっていると述べています。

・今回、手が外界へ探索していくための体性感覚受容器に変化をもたらしたため、体性感覚情報(上肢や上部体幹など)や空間情報とを統合させる頭頂連合野に何らかの影響を与えることができたのではないかと、かなりポジティブな考えで、私自身をなだめてみました。

久保田競:手と脳~脳の働きを高める手
塚本芳久:臨床家のための発達科学入門.運動の生物学(2)

2012年4月12日木曜日

リーチ動作と把握運動

片麻痺患者さんの非麻痺側の把握運動時、なぜか物を下方に押し付ける傾向にありました。そこで文献を探していると、発達にそった内容が発見できました。

「大人は、対象物に手が届くと、持ち上げる段階で手から落ちない程度の力で掴む。これらの動作は触覚的入力に依存しているのではなく、物に触れる前から既に始まっている。」

「2歳以下の子どもは物を掴んでも持ち上げようとせず、下方へ押しつけてから持ち上げる傾向にある。」

と述べていました。片麻痺患者さん、発達の話・・・。この2つの話を無理やりにでも共通する部分を考えました。文献では「物に触れる前から既に」「片麻痺患者さんは大人」。う~ん。おそらく姿勢制御や蓄積された経験や運動学習によるものが含まれていると私なりに考え、片麻痺患者さんにかかわってみました。

①リーチ時に頭頸部の伸展から開始していたため、介入にて頭頸部の伸展が起きないような場面をつくると、物を下方に押し付ける反応がみられなくなった。
②その他の患者さんではもちろん方向によって反応の違いはあるが、繰り返していくうちにリーチ時の姿勢反応に変化がみられ、物を下方に押し付ける反応がみられなくなった。

①は、中大脳動脈領域広範囲の方で②は基底核の患者さんでした。
①は、リーチする前の構えを行うための手がかり(簡単にごまかしてしまうと安定性)が提供できたからなのでしょうか。他の文献によれば、首のすわらない赤ちゃんを、首を支えてあげるとリーチが上手になると述べていました。
②は、何度も行っていくうちに、自己と物との距離間を学習したのか、リーチ運動が効率的になっていました。これはリーチの軌跡に関与していると考えてよいのでしょうか。

話が変わりますが、今日英会話の寄り道にg・uという服屋さんで初めて買い物をしてしまいました。すごいですね。値段にとてもびっくりです。ユニクロよりも安く、デザインがかっこいい。服を買うときはこれからここでも良いと思いました。
目標としている海外留学・大学院に向けて、服以外でも上手なお金の使い方についてたくさん学んでいきたいと思います。

参考文献:

2012年4月1日日曜日

援助行動の生起過程と抑制要因について~社会心理学~

キティジェノビーズ事件 
 1964年ニューヨークで起こった婦女暴行事件。 深夜、帰宅途中のキティは自宅アパート前で暴漢に襲われました。叫び声にアパートの住人38人が目を覚ましこの事件を目撃していましたが、誰ひとり警察に通報せず、彼女を助けようともしませんでした。結局キティは死亡し、犯人は逃亡してしまった事件です。


 人は自らの利益を犠牲にしてまで他者を助けようとするときもあります。どのような要因が、人の援助行動を促進したり、抑制したりするのでしょうか。


 社会心理学者のラタネは、
「多くの人が知っていたのに助けなかったのではなく、多くの人が知っていたからこそ援助行動が起きなかった」
と主張し、ニューヨーク市民を他者への無関心やモラルの低下ではないことを述べています。


 以下はラタネの考える3つの援助行動抑制要因を挙げています。
1:注意の拡散
 周囲に人がいると注意が拡散するため、緊急事態が発生していること自体に気付かないことがある。
2:多元的無知
 事態が起こっていることに気付いていても、それが援助を要するほど深刻なものであるかどうかが明確でなくなってしまうもの。こうしたあいまいな状況では、人は他者の行動を参照しようとする。
3:責任の分散
 明白な緊急事態であるとわかったとしても、同じ状況に気付いている他者が周囲にいることにより問題の解決に対する個人としての責任感が薄れてしまう。この傾向は、傍観者の数が増すにつれて強まる。


 このことから、私たちが何かに巻き込まれた時、周囲の人の数が多ければ多いほど、このような事態になりかねない可能性があると考えられそうです。人が多ければ必ずだれか助けてくれる。そう思っていましたが、必ずとも人の数に伴って起こるものではなさそうです。


 遺伝子を視点とした生物学的に捉えると、多くの人の遺伝子を残すために、
「人を助ける」
という援助行動が生まれたと言われています。そう考えると、やはり人を助けることそのものが、私たちの利益にかなっていると考えられそうです。なので、何か困っている人がいれば、私は私のために、勇気を持って助けていきたいと思います。