2012年6月29日金曜日

文京学院大学 臨床ブラッシュアップコース開始!

 いよいよはじまりました。記念すべきスタートは、東北大学の佐藤先生で臨床動作分析というテーマでした。クラインフォーゲルバッハをベースとした内容でとても充実した二日間を過ごすことができました。講義内容はすべて網羅することはできませんが、佐藤先生の講義を聞いて特に印象的であった内容について述べさせて頂きたいと思います。




 今回印象に残ったお話では、‘‘経験的な分析‘‘の流れから暗黙知という言葉が挙げられていたことでした。この意味は、
「言語的に形式化できない」
ということを示しているようです。





 これには自転車の乗り方や医学的な診断などが含まれているとのことでした。つまり、医学的な診断には言語的に形式化できない、科学的に立証できない部分があるということなのでしょうか。





 特にリハビリの世界でも暗黙知として形成される要素は多くあり、ある種の自動化、無意識化の過程を経るということを述べていました。





 たしかに私個人患者さんとのやりとりで良いと思ったことを、他者に言語化して伝えることができないことが多いです。






 生物と微生物のあいだ;福岡伸一を引用していた言葉で、
「医者がX線写真をみているものは、胸の映像というよりはむしろ彼らの心の内にあらかじめ用意されている理論なのである」
というものが挙げられておりました。






 この話を聞いてとても衝撃をうけました。医者だけでなく、リハビリの世界においても充分考えられることで、同じ患者さんをみていても客観的事実をみていない可能性が大いにあり、それは患者さんのための治療選択のための判断を誤める要因にもなるということでした。





私は患者さんについて学生さんのお話を聞いたとき、
「何故そうみえたのか」
と疑問に思うときがたくさんあります。





 上記内容を考慮すると、頭がやわらかい学生さんのみた世界が本当の事実で、私がみたものは、私がつくりだした都合のよい理論である可能性が大いにあります。






 学生からしたら、事実と異なることを当たり前のように、しかもそれが正しいかのように私から説明されるので、どのように解釈したらわからないかもしれませんね。





 一方で、ロバート・Cによると、

「今の医学の世界では科学的立証されることに重点的におかれ、すばらしい治療法があるのにもかかわらず、その活用は権力(科学)におって妨害されていることが残念でならない」

「現代科学のおさえがたいこの欲望によって、医のアート、医術が復活することはない」

と述べています。



 理学療法士さんのブログhttp://ameblo.jp/ksouichi/entry-11195800886.htmlでも、医学の世界では経験と勘の大切さについて分かりやすく述べていました。





 経験によるものは、言葉に形式化できない要素があるのだと改めて感じました。科学的に立証することだけでは臨床での答えを引き出すことは難しく、その人特有の‘‘勘‘‘も重要なのですね。




 だからといって、その勘も客観的事実に基づいているとは必ずしもいえず、常に確認していく作業が必要なのだと思いました。





 これにより、賛否両論であることは承知の上ですが、科学的に立証することだけに目を向けず、ロバート・Cさんが述べるよい治療法が自分のなかで蓄積できるように、日々患者さんから学ぶ姿勢を怠らないようにしていきたいと思います。



 加えて、それを客観的事実と結びつけて適切な治療を選択していく努力も必要だと思いました。





 また、学生さんを担当することで、無意識にシャットアウトしている視点を取り戻していけることに、感謝の気持ちをもちつつ責任ある指導的立場としてしっかりとかかわっていきたいと思います。


2012年6月20日水曜日

病気がストレスに関係することについて:Ⅱ


 私たちの体には、約60兆個の細胞から構成され、ストレスによって細胞がダメージを受けるという話でした。人間の体の約60%は水分と言われており、ダメージを受けることによって細胞から水分が失われるようです。この水分は細胞が活動するための必要なものが含まれるため、水分が細胞から失うということは、細胞の活動を低下させると述べています。

 このダメージを回復させることができるのが、「糖」のようでした。コルチゾールはこの糖が細胞に行き渡りやすくために血糖値をコントロールします。細胞を元気にするために、血液中の糖分を取り組み、膵臓のインシュリンが必要になります。これによって、細胞が元気になると、視床下部へストレスが消えたという情報を送るそうです。このことは、コルチゾールとインシュリンは一緒に働くため、ストレスが続くと膵臓にも負担がかかることがいえます。つまり、ストレス状態が続くと副腎や膵臓を疲労させ、糖尿病のリスクをも高める危険性があると考えられます。糖尿病になると、血液中に糖がいっぱいある状態なのに、インシュリンが足りないために細胞が養分を吸収できない状態になります。だから、糖尿病の人はやせていくのですね。
 これらのことから、太っていなくても、食べすぎていなくても、現代のストレス社会の生活では糖尿病リスクを引き起こす原因となることが考えられるそうです。
 ストレスを感じやすい私の体も今頃視床下部は働きっぱなしになっているのでしょうか。視床下部には自律神経系も存在するため、交感神経優位になっていることが考えられそうです。休みになると一日ぐったりしてしまうのは、そのせいでしょうか。気持ちの問題が大部分と思われますが、ストレス発散した次の日に体が軽いのは、私の体にはホルモン系や自律神経系の影響が強いからなのかもしれません。

2012年6月10日日曜日

病気がストレスに関係することについて:Ⅰ

この間、臨床実習生とさまざまなお話を聞く機会がありました。教科書で載っている内容が臨床で応用的に捉えていくことが難しいということでした。この問題は、恥ずかしいことながら学生でもない私にもいえることでした。学生の立場・目線とした内容で進めていきたいと思います。

病気の発生学の進歩によって、その原因の多くがストレスにあることがわかってきているようです。そのストレスといってもさまざまで、「精神的ストレス」や「身体的ストレス」などがあり、私たちがストレスと自覚していなくても、体がストレス反応をおこすこともあります。

私たちの体で最初にストレスを認識するのは「脳」だそうです。全身にはりめぐらされた神経を通じて脳の「視床下部」というところでストレスを認識されます。ストレスが溜まると食べ過ぎや食べなさすぎるという話をよく聞きます。これは、ストレスをためこんだ「視床下部」が誤作動をおこしてしまうことが原因として表れるそうです(摂食障害)。

ストレス状態が長く続くと、病気の原因となるホルモンのバランスと自律神経のバランスが崩れ始めるそうです。脳の視床下部で受けたダメージを回復させるために、同じく脳の「下垂体」と呼ばれる場所に指令を出します。この「下垂体」は、ダメージ回復の実働部隊というべき副腎にストレス軽減に役立つホルモン(副腎のコルチゾール)を出させます。つまり、ストレスを感じるとコルチゾールの分泌量が増え、ストレスが解消されるとコルチゾールが正常化することがいえます。しかし、長く続いたことにより副腎は疲れ果て、視床下部は副腎の働きを抑制してしまいます。すると、ストレスがあるのにもかかわらず、コルチゾールが出ないという状況に追い込まれます。コルチゾールは疲労した細胞を元気にする働きを担っています。

次回、コルチゾールが出ないということがどのような影響を及ぼしてしまうのか。膵臓・インシュリン・糖尿病を用いた内容で進めたいと思います。

参考文献




2012年6月1日金曜日

老いの心理学

「私たちは老いについて見て見ぬふりをする。自殺者の統計では高齢者が圧倒的である。社会的定年を迎えると、あとは下り坂でその終わりは死であるというのが通俗的な人生観である。体力は衰え、記憶は薄らぎ、人間関係は縮小していく。そして孤立と孤独・社会的孤立の難問へ・・・。」

この本によれば、老いには「下り」ではなく、「上り」であるといっています。私はこの本を読んで、普段のリハビリテーション医療を実施していくなか、対象者を「下り」目線で行っていように思えてきました。対象者の本当の訴えを聞かず、こちらからの一方的な考え方で目標を設定してしまう。回復期リハビリテーションに求められる自宅退院を目的に、ポータブルトイレの使用、必ず家族の監視のもとでの生活、通所サービスの利用・・・。対象者は、自分の訴えを述べる間もなく、残りの人生の道筋を周囲から強制的に決められてしまう。

この本の「上り」についてこう述べています。
「米国の老人クラブでは、楽しそうに学習会を開いていた。テーマはなんと遺書の書き方。死の準備さえ人格的成長の一貫として捉えていた。」
「寝たきりの高齢者が、この次には世話をする人に生まれ変わりたいと言い遺した。」
「ひとりは孤独として捉えるのではなく、今までずっと縛られてきたわずらわしさから解放された喜び、ゆとりを受けとめる。なかにはまるで殿様の気分と言う高齢者がいる。ひとりの生活形態を重んじ、これを支える医療と福祉を充実させることである。」

リハビリテーションは、単純に機能をよくすることや在宅医療を目指すことでなく(だけでなく)、ひとりの人が思う「自立」を目指しながら終わりをまっとうする援助であること。それが大切だと思いました。
人間は生まれた瞬間から死へ向かって歩き続けると言われています。その人らしい上り坂を切り開く意志と努力を引き出していく人間が求められる気がしました。死を人生の頂点にできるかが、私たち一人ひとりに問われる課題であると述べています。




在宅へ帰る予定の患者さんが、実は施設にいきたいとこっそり私に問いかけてくれた患者さんがいました。在宅へ帰るために必要な歩行やトイレ動作を、一方的に押し付けている自分がとても無力に感じた瞬間でした。私にとっての作業療法士の位置づけは、ますますわからないものになっています。この本を読んで、また新たな課題を頂いたような気がします。